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よくわかるカーテンの必要性

広告にしばしば著名人が出てくるのは、広告主が本来、信用されにくい存在だからだ。
そして言うまでもなく、通信販売とは、広告つきの販売、いや、販売つきの広告だ。
そこで、ちょっと考えてみてください。
買おうか買うまいか、この広告を信じょうか信じまいか、と迷っているときにあなたが頼る審判員はだれですか。
身近にいる信頼者ですね。
夫、妻、親友が「この商品はまちがいないよしと保証してくれれば、あなたの迷いは消える。
げんに、『通販生活』で購入動機をアンケート調査すると、「友人がすすめるので申込んだ」といった回答が実に多いので拍子抜けしてしまう。
なんだい、こんなに一生懸命説明したのに、こっちの言うことは信じてくれなかったのかよ。
「広告だけでは信用できない。信頼者を媒介して初めて広告を信用する」これは買い物の世界にかぎった話ではないだろう。「広告」を「情報」に置き換えてみれば、の信用を媒介することで情報を信用する人」のほうが割合としては圧倒的に多いはずだ。
ここに、情報Aと情報Bがあったとして、あなたは情報Aのほうが内容的には正しいと思った。
しかし、あなたにとって情報Aを発信したAさんはまったく知らない人で情報Bを発信したBさんのほうが昔からの親友だったとしたら、つい情報Bを信用したくなってしまうんじゃない?れど、騙されているんじゃないかなあという不安。
先に書いた、理論信仰より経験信仰(実感信仰)のくだりを思い出してください。
このように、情報の信用性は発信者と分かちがたいとする人が多いために、広告主よりは購とも近い存在になっていく。
テレビCMを筆頭として、著名人が広告にしばしば登場する理由をひとロで言えば、「広告主は信用されない」である。
ふた口で言えば、「広告に出てくる著名人はあなたが信用する友人の代理人として機能する」である。
なぜ、広告は信用されないのだろう。
広告を情報一般に置き換えて考えてみるとわかりやすい。
情報の信用性は、情報に占める発信者の利害度、受信者の発信者への好感度、この二つの組合せから発生する。
『アンネの日記』や山田風太郎さんの『戦中派不戦日記』がいい例だ。
だれの目にもこれらのからだ。
同じ日記でも有名人の回顧録となると少し信じにくくなってくる。
読者を意識した自己顕示、自己美化、自己合理化、自己防衛があるにちがいない。
そのための脚色や潤色がきっとあるぞ。
それと時間もたっているから記憶違いもあるだろうな、と読む側は読む前から少し不信のまなこを用意している。
売上げを目的とした通信販売の商品情報、つまり広告は、信じにくい情報の最たるものだ。
受信者は情報の目的が発信者の利益づくりであることを知っている。
そこへもってきて、商品の現物は肉眼で見ることができない。
見ることができないことをいいことに甘言を弄して売りつけようとしやがって、そうかんたんに騙されるものか……通信販売の商品情報を上回る「信じにくい情報」なんて、この世に政党の選挙公約くらいではないのかしらん。
そう言えば、本書もこの項目に当てはまるみたいだ。
以前に『通信販売は小売を変える』という本を出したとき、ある消費者雑誌がとても好意的な書評をのせてくれたのだけど、「著者が通販会社の社長だからおそらく自社のPR色が強いだろうと思って読み始めたところ……」と書いてあったので、びっくりした。
自分では毛頭そんなつもりはなかったのだけど、そんなふうに身構えられちゃうんだねえ。
いま、本書を手にしている読者の中にもきっと、同じように身構えながら読んでいる人、いるにちがいない。
本書の文章はつねに「PRじゃないの?」という不信感を下敷きにして読まれているのか……いいけどさ。
もう1本の軸はこうなる。
(好きな発信者からの情報は、信用性が高い)前述の福本雅子さんの経験によると、「売上げをつくれるモデル」と「つくれないモデル」がいるそうだ。
服が売れる理由には、商品力だけではなくて、それを着るモデルの好感度がかなりの割合を占めるんだそうだ。
モデルならだれでもいい、というわけではないんだね。
商品テストをして、納得できた商品だけをカタログに掲載することを心がけている。
商品の検査とテストのために20人を超えるスタッフを揃えている。
しかし、商品テストを基本とした売り方だけでは、やはり信用されないのだ。
消費者雑誌の商品テストと違って小売のテストは販売つきであり、販売つきということは広告だからだ。
『通販生活』は著名人を登場させすぎるよという読者からの批判は、一体いつまで著名人の信んだい、いう批判だった。
小売が小売のままで、「消費者の信用する友人」になりたいと思うよ。
そう言えば、地域共同体が崩壊する以前は、友人としてのよろず屋がいたるところに存在していた。
ちょっと小うるさい親爺だけど、「あいよ、掃除機、じゃなかったホウキならこれがいいよ、まちがいないよ」なんて客の好みや性格に合わせて商品を選んでくれる親爺さん。
いい加減に選んでいると地域の信用を失うわけだから、親爺さんもけっこうモノ織り客織りだった。
当然、消費者は商品を信用する前に売り手である親爺さんのコトバを信気配があったね。
『帰らざる河』の川下の町の雑貨店店主なんか、「必要だろうと思ったから、これ用意しといた、ツケでいいから持ってってくれ」なんて、主人公と親友みたいな口の利き方をしていた。
西部劇ばかりを例にして若い読者には申し訳ないが、珍しく雑貨屋を主人公にした西部劇があったの、おぼえている人、いないかな。
どうしたら、著名人の信用を媒介しないで、小売自身のコトバだけで「友人」になれるのだろう。
雑貨屋を主人公とした『必殺の一幸』の広告主、つまり企業を信用してもらいたいという欲求は、むろん広告を本業とする通販企業だけではなくて、どんな企業ももっている。
広告評論家の天野祐青さんは、消費者が企業ブランドを標識にして商品を選択していく動きは八〇年代から顕著になってきたと指摘している。
一九八二年に西武百貨店が出した「おいしい生活」あたりがそのハシリと言っていいかも知れません。
糸井重里さんが書いたそのコピーは、モノの価値にタテの序列なんかはない、すべてのモノはヨコ並びであって、そのなかからそのときどきの「好き嫌い」で、モノを選んでいけばいいじゃないかと言った。
「豊かな生活」の価値観から自由になって、人それぞれに自分流の「おいしい生活」をしていこうよ、というわけです。
そこには個々の商品の差異化はない。
むしろ放棄されている。
で、そういう主張をする百貨はサントリーというブランドの、キンチョーはキンチョーというブランドの差異化をはかる。
以前からも、そういう考えや試みはありましたが、〝晶質・性能の差異化〟から〝ブランドの差異化″へという流れがはっきり意識化されるようになったのは、この時期からだったと思います。
天野さんはつづけて次のように書く。
ところで、ブランドの差異化というのは、堅苦しく言えば、その企業の独自の思想や哲学を表現することでしょうが、実際には、その企業ならではの〝らしさ″を表現するということになります。
歯磨きの広告で、「その表現のセンスで、みごとに差異化をほかっている。
商品が似たり寄ったりなら、売り言葉の面白いほうから買ってやろうというのが大衆の心情でしょう」と指摘する。

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カーテンは今まで培ったノウハウを活かし、カーテンのサービスを安定して提供できるよう取り組んでまいります。